- すべて
- 画像・動画
並べ替え:新着順
返信先:@naruseyanoken1初めから織田の人質に差し出すつもりが今川の横槍が入り、信広を捕らえてしまったため交換せざるを得なかったとか。松平広忠は織田と手を結ぶ予定だったわけですね。水野信元とか久松弥九郎の説得もあった。あくまで松平は徳川(新田)で今川の敵ですから。
幼い頃の徳川家康が拉致されて、織田方の人質になったという説は間違いだった!? news.yahoo.co.jp/expert/article… 村岡説はちょっと読んだことがあるのだが、家康が織田家の人質ではなかったかと言うとそういう話ではない。実際松平広忠が負けてその証。
返信先:@naruseyanoken1これ何気に凄い話。今まで自分も一貫して松平広忠は今川方のイメージで、律儀な家康は親の遺伝もあったのかと…^^;また、織田信秀は今迄の私達が思っているより勢力が大きかったのかもしれません。
#安祥城 🏯址 織田信秀(信長の父)と、 松平広忠(家康の父)が、 三度にわたりこの城を奪い合った。 現在では、本丸跡には大乗寺。 二の丸跡には、八幡社が建っている。 #テツ坊の歴史探訪ツーリング #バイク乗りと繋がりたい #バイク好きと繋がりたい pic.x.com/57OAU0Ddct
#安祥城 🏯址 1540年〜49年 安城合戦。 織田信秀(信長の父)と、 松平広忠(家康の父)が、 3度にわたりこの城を奪い合った。 #テツ坊の歴史探訪ツーリング #バイク乗りと繋がりたい #バイク好きと繋がりたい pic.x.com/v8iB6IHncG
安祥城 安城市指定史跡 松平広忠(家康父)の時代に、尾張の織田信秀(信長父)と、この城を奪い合う安城合戦(安城城争奪戦)が3度にわたって繰り広げられた 安祥城址公園として整備され、安城市歴史博物館等がある #日本100名城では無い城の写真を一斉にあげよう pic.x.com/9qAM58eYsW
『戦国人物伝 徳川家康外伝 最強! 三河武士団』再読したら、幼少の仙千代(松平広忠)と小平次(酒井忠次)のシーンは『戦国人物伝 結城秀康』の長丸(秀忠)と甚三郎(土井利勝)のシーンの対比になってるのね。 仙千代を遠慮なく投げ飛ばした小平次のポジションに甚三郎を据えるのか…! pic.x.com/YLgqQT9eJb
#隣松寺 家康父君松平広忠が竹千代(のちの家康)誕生の折、祈願。また、家康が三河一向一揆と争闘する折に、やはり祈願して一揆に勝利。三河に行くと秀吉色が希薄になり、松平の色が濃密になる。 pic.x.com/HDMkng70gz
おはようございます☁ 1596年10月28日(旧暦)、酒井忠次が没。 三河の酒井忠親の子で徳川四天王の1人。 徳川家康の父・松平広忠の頃から仕え、家康が今川義元への人質として駿府に赴いた際には同行した。 宿老であった石川数正が出奔してからは筆頭家老として家康を支え続けた。 本日も良い1日を✨️ pic.x.com/aoxWSvm7M0
おはようですじゃ 今日は酒井忠次が亡くなった日じゃ 酒井忠親の次男にあたる 松平広忠に仕え酒井小五郎そして後に左衛門尉と称している家康が今川義元への人質として駿府に赴く時に家康に従う家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者として同行しこの後徳川家康の配下として仕える
「清和源氏」は清和天皇に連なりますが、清和天皇は源氏ではありません。 「徳川将軍家」は三河松平氏に連なりますが、松平広忠は「徳川将軍」ではありません。 「皇統126代」は天照大御神に連なりますが、天照大御神は「126代」には含まれません。 以上 x.com/kiutyou/status…
吉良持広 吉良持清の子 持広は松平宗家の継嗣松平広忠が松平一族の紛争で居城岡崎城を追放されるとこれを保護し今川義元に松平氏救援の執成しをした 広忠の三河再入国には持広の家老富永忠安を同国幡豆郡室城に招き入れ岡崎城復帰の実現につなげた
「於大の方」 徳川家康の母 1528 -1602 実名「大」、または「太」 「たい」 従一位 諱「大子」たいこ 墓地 伝通院 別名 伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼 配偶者 松平広忠、久松俊勝 子 徳川家康 松平康元、康俊、定勝 父 水野忠政 母 於富の方(源応尼) 兄 水野信元 妹 妙春(妙西)尼 ほか
伊賀八幡宮の駐車場の脇にある教國稲荷神社も参拝しました。 可愛いお稲荷様がいらっしゃいました。(^^) この後は徳川家康の父松平広忠の廟所である松應寺にも寄りたかったんですけど、ちょっとこの日中に確実に栄のサンシャインサカエに寄らないといけないので諦めて名古屋に向かう事にしました。 pic.x.com/mncWVDQBDa
同じ臨済宗でもそれまでの建仁寺派から離れて妙心寺派に転じ法名も後世に知られる太原崇孚と改める 織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を要請してきたのを機会に雪斎は大軍を率いて西三河に介入する 今川軍を率いて三河田原城を攻めて同城を落とした
1602年 #10月13日 #於大の方 没。知多郡の領袖水野忠政の娘で岡崎城主松平広忠に嫁ぎ #徳川家康 を産むも実家が織田に属して離縁され久松俊勝に再嫁。離別16年を経て桶狭間で独立を果した家康に迎えられ3児は松平姓大名に。末子定勝が桑名藩13万石に大成し子が松山藩15万石へ pic.x.com/l2Q4ABrzKW
おはようございます 10月13日は於大の方の忌日 松平広忠の正室で徳川家康の母 天文13年広忠は今川氏への配慮から於大の方と離縁、家康を残したまま刈屋城に戻るこの時、家康はわずか3歳 永禄3年の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、夫 久松俊勝と於大の3人の息子に松平姓を pic.x.com/4z6gA1tJsV
返信先:@naruseyanoken1この記事は古~い徳川史観ベースですね💦 今川義元からすれば、①弟(異説あり)氏豊の那古野城を奪った悪人織田信秀との戦い、 ②清康死後岡崎帰還を援助した松平広忠の勢力を信秀から守る戦いでした。 広忠急死後竹千代(家康)を岡崎に残してもお家騒動は明らかなので、駿府で育成したのでしょう。