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岡﨑の松応寺横丁へ。 以前訪れた時はシャッター街だったけど、リノベーションでレトロでオサレなエリアになっていて驚いた。 平日は閉まっている店が多いので、土日に行くといいみたい。 以前は崩壊していた松平広忠の廟所の壁もきれいになってた! pic.twitter.com/aFQLsZ9rLQ
返信先:@bushidoh_sbいま麒麟の12回目を観てますが、信長が松平広忠に暗殺部隊3名を送り込んで討ち取り、それを水野家の菊丸が水野信元と於大に報告するシーンで彼が忍だとわかる作りなど、展開が面白いんですよね! 史料などで不明な部分を どううまく描くか!?は製作側の腕の見せ所ですね。
まず世系、皇統それから皇統譜の「皇統第一」の意味がわかりますか? 松平広忠は徳川の世系第一ではないので、全く的外れの例え😹
返信先:@gZi7ODWZM6sKoas他2人「世系」は「皇統」とは無関係ですからね。 「皇統第一」は神武天皇。 それ以前は「神武天皇の先祖」であっても「皇統」とは無関係。 松平広忠が徳川家康の父であっても「幕府将軍とは無関係」なのと同じ。
返信先:@gZi7ODWZM6sKoas他2人「世系」は「皇統」とは無関係ですからね。 「皇統第一」は神武天皇。 それ以前は「神武天皇の先祖」であっても「皇統」とは無関係。 松平広忠が徳川家康の父であっても「幕府将軍とは無関係」なのと同じ。
広忠寺、法蔵寺で続けて松平広忠の墓、その他を見る。 法蔵寺は知らなかったけど近藤勇の首塚もあった。皆さん知ってた? 最後に関口刑部の墓に行ったけど見あたらず、ただし情報とは違う石塔群あり。慶忠院が合併でなくなった時に移されちゃったかな。 pic.twitter.com/5OOBgw6p6u
松平広忠の墓がある松応寺。2回目の訪問だけど廟所の門にある銀杏紋を確認に来ました。 あれ?めちゃキレイになってる。 門も建て替えられていて銀杏紋もなくなってた(無念) 気を取り直して大宗寺へ。境内は草が伸びていて少し寂しい。 石川数正の墓は・・ あっ!ここ忘れてたけど来たことあった・・ pic.twitter.com/hOwFIX9BcU
返信先:@sakata_takuro戦国時代の岡崎城(松平広忠の代)と同じようなものですね 今川家の岡崎城代が三河にいるし 織田家にも国境を脅かされる… 悲しいかな結局は軍事力(経済力)なんですよね😥
返信先:@kunozan_toshogu信長公と秀吉公の桶狭間の戦いがいなければ、家康公も、父・松平広忠公同様、今川配下の三河の弱小大名で終わっいました。まさに三人で一人ですもんね💕 そして、秀(吉+広)忠公へと受け継がれ戦国乱世は終わりました💕 そこで信長公&家康公出世の契機となった桶狭間の戦い1560を推理してみました💗 pic.twitter.com/edIhib4Mow
#ゆいはんメール 横山先生こんにちは🫠どうする家康延長戦💿三河武士の聖地、岡崎城、松平清康からの居城で、松平広忠が愚将で守山崩れで一旦今川義元の属国になり義元の傘下になるが桶狭間の戦いで義元が敗れ家臣達が逃げたのを松平元康(後の徳川家康)が拾った形になり再び三河武士達の聖地になる! pic.twitter.com/jTxCwyN8Cs
#斎藤道三 に美濃侵攻を阻まれた #織田信秀 は今川から強奪した人質 #徳川家康 を奇貨として三河攻略に専念。寝返りを拒否した父松平広忠の岡崎城を攻めるも太原雪斎の伏兵戦術に破れ庶長子信広が捕虜に。が渦中に広忠が横死し傀儡が必要な今川は家康との人質交換を申出ます pic.twitter.com/70ar33Y6Gy
返信先:@St8twsWDFUa8eYM徳川家康(ドラマ)で家康の父・松平広忠役で出ているのをたまたま見て、あ、懐かしい!そういえば近藤正臣さんてあんまり見かけないなぁと思って調べてました(*^^*) 昔は何とも思わなかったけど、久々に見たらかっこいい人だなって😍 今もお元気なようでホッとしました😌
岡崎城の近くに六供町(ろっくちょう)という地名がありここに甲山寺という松平広忠が開山させた寺があり開山時に六の坊を建てたとのこと。 可能性として榊原七郎右衛門の宿坊となっている六供町の三城坊に(家忠が)泊まった。
松平信孝 (戦国時代) 松平広忠の岡崎帰還を支援。 天文4年(1535年)、清康が家臣に殺害され(森山崩れ)、その子の広忠が家督を継いだが、広忠は大叔父の松平信定(桜井松平家。信孝にとっては叔父)によって岡崎城から追放された。信孝は大久保忠俊らとともに広忠の帰還を謀り、天文6年(1537年)5
ということで、笠寺観音境内のこの碑は、史実的にはちょっと違うかなあと思うわけですが、いかがでしょう。ちなみに竹千代(家康)のルーツは三河(松平広忠)と知多(水野於大)であり、そんな人が、今川の属国の主になるつもりはなかったでしょうね。若き家康が今川の臣で満足するはずもないのです。
しかし思うにこの祭は、1550年に笠寺が今川に信仰され、国人衆らが織田・今川に分かれて内戦となったことに由来するのではないでしょうか。内戦は体裁が悪いので、家康人質交換にかこつけてその由来としたのでは、と思えます。人質交換は停戦なわけで、戦う祭というのはちょっと違う気がします。
新しい戦国ゲームアプリ試しにやってみたけど、主人公が細川勝元と山名宗全との戦いに巻き込まれて松平広忠に助けられ宮本武蔵に預けられて十余年、朝日姫を連れて松平広忠に再開ってもう突っ込みどころしかない外国産ゲームだった
麒麟がくる:明日第8回に浅利陽介が登場 家康の父・松平広忠役 「軍師官兵衛」「真田丸」では小早川秀秋を… mantan-web.jp/article/202003… @mantanwebより
ちょっとずつ新キャラ&新ビジュアルが発表されてた 織田信勝(信行) 三好長慶 細川晴元 松平広忠 三好様が山路さんとか大河ヲタに何と福利厚生が行き届いた配役か #麒麟がくる pic.twitter.com/a3SpnYCD6M