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#独眼竜政宗 このように陪臣を豊臣直臣としたのは島津では当主義久の弟義弘や伊集院忠棟、上杉では直江兼続などがいる 特に義弘は当主義久の官位を上回り両者の間に微妙な関係を生む 伊集院忠棟は政権から直接日向に所領を与えられ石田三成と共に島津領の検地を行い、殿下没後は悲劇的最期を迎える pic.x.com/1t6itz0esw
▲ブー爺:『屋久島・奄美大島・琉球』復習編「薩摩の屋久島支配」 天正15年(1587) 九州制圧後、島津に3国を安堵。豊臣秀吉が京都方広寺の建築材を調達するため、島津義久に屋久杉の貢ぎ物を送るように命じた。石田三成が屋久島の木材資源量の調査を伊集院忠棟(妻は種子島久時の姉か妹)にさせた pic.x.com/risfsom1l9
しかし、3月9日島津忠恒が豊臣秀吉・石田三成よりの伊集院忠棟を京都で斬殺した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで島津家は西軍につくか東軍につくかで義弘と義久の意見が分かれてもいた。西軍に参加。島津家は伊集院家を警戒し、島津義弘はわずか800の兵しか送れなかった。 pic.x.com/ej2nehmabb
▲ブー爺:TV録画「さわやかウインドー」『屋久島の自然 』おまけ「歴史」 (縄文杉のトレッキングルートに標高1030mにウィルソン株の可能性が?)島津義弘は秀吉のパイプ役を継続したが、息子島津義久・家臣が秀吉に反抗的な態度の噂が。豊臣秀吉に重用された伊集院忠棟らに対する家中の反感が。 pic.x.com/ga27m0havc
▲ブー爺:TV録画「さわやかウインドー」『屋久島の自然 』おまけ「歴史」 天正16年(1587)豊臣秀吉が秀吉は島津義弘に、羽柴の名字を与えた。東大寺よりデカい方広寺を造る目的で、島津義久に屋久杉の貢ぎ物を送るようにと命じた。島津氏の重臣伊集院忠棟らが調査に来島。(白谷雲水峡写真消滅) pic.x.com/epq03n1vjm
▲ブー爺:TV録画「さわやかウインドー」『屋久島の自然 』おまけ「歴史」 天正15年(1586)秀吉は伊集院忠棟には大隅のうちから肝付一郡が宛行った。島津義久は九州北部・中部には秀吉の重臣は入ったため、南に手を伸ばす方針に。屋久島・奄美大島を手に入れ、琉球貿易の独占を目指すことにした。 pic.x.com/icj2gzpc7f
▲ブー爺:TV録画「さわやかウインドー」『屋久島の自然 』おまけ「歴史」 天正15年(1586)石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、豊臣秀吉は島津家の領地として、島津義久に薩摩一国を安堵し、島津義弘に新恩として大隅一国、島津義弘の子・養子の久保に日向国諸縣郡を宛行った。 pic.x.com/axtoebxhif
▲ブー爺:TV録画「さわやかウインドー」『屋久島の自然 』おまけ「歴史」 天正15年(1586)以前から豊臣秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も人質となり豊臣秀長に降伏。佐土原城の島津家久も開城して降伏。島津4兄弟島津義久・義弘・歳久・家久の中では最も早く豊臣秀長軍と単独講和した。 pic.x.com/g8mlochdue
文禄5年(1595年)10月9日の歌会から。鹿児島県史料『旧記雑録 後編二』に収録。 春にこそさくら嶋ともいひつらめ しくるゝけふハ紅葉ならまし 龍伯(島津義久) 冬さへも咲ちるなみの花よりや さくら嶋とは名つけそめけん 幸侃(伊集院忠棟) #桜島 #島津義久 #伊集院忠棟 pic.x.com/s0hay8agqv