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海北からの渡海侵攻を、対馬・壱岐を警戒ライン、博多湾を第一次防衛ラインとして迎撃 大宰府を抜かれたら瀬戸内海で遅滞戦闘しつつ戦力を集結し、京より西で決戦というのは律令制時代からの既定路線 ジッサイ、鎌倉幕府もこの枠組みで動いていた。博多湾で撃退成功したが。 twitter.com/rUyaCVtIiRxgC9…

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アプロ@rUyaCVtIiRxgC9M

海北への玄関口でもある筑紫/大宰府が第一防衛線 大宰府で阻止に失敗した場合、予想侵攻ルートである瀬戸内海を囲む要塞群で敵を削り、大阪湾/大阪平野が最終防衛ラインとなる構え。 日本海航路は冬場荒れるし、若狭湾から内陸侵攻は地形的になかなか厳しいしね。

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在地武装領主の動員は、元寇以前に起きた刀夷の入寇でも成功している。 武装したジモティーが手弁当で馳せ参じる封建諸侯の軍隊は近代的な軍隊と比べて色々問題点は多いが、こうしたレスポンスの早さが外敵の侵攻に対しては有効に機能することも多い。 twitter.com/rUyaCVtIiRxgC9…

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訂正:博多湾上陸は9日です。 海岸に上陸した賊徒たちが眼にしたものは、すでに展開済みの大宰府のツワモノたちであった。 7日に臼砲を受けた大宰府の藤原隆家は、平為忠以下大宰府詰の「やんごとなき武者(承平天慶の乱などで武功を挙げた功臣/軍事貴族の末裔)」による迎撃態勢を整えていた(続く

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