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設けられていた。広瀬川を渡った先に高札場と桝形があり、坂を登って更に桝形、その先に表門(大手門)があった。城下と街道を見下ろす位置に石段を持つ太鼓櫓が置かれ、1万石の藩の陣屋ながら城風の設備を持っていた。 戊辰戦争で、小藩の下手渡藩は奥羽越列藩同盟に加わらざるを得なかった。だが(続く) pic.twitter.com/TpchDDdINK

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さのかずき@uXgmRJwxYXeFDjx

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藩主種恭は大阪に行き、本藩立花家と共に西軍に付く。仙台藩はこれを同盟離脱と見なし陣屋と町を焼き払う。家老らは柳川藩兵に救出され、立花家は三池に転封となる。 明治35年、旧藩士達により御殿跡に建てられた「懐古碑」には、天保の飢饉で領内に一人の餓死者も出さなかったこと等が書かれている。 pic.twitter.com/Kw9s4L5Qug

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