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日本書紀では、丹波道には丹波道主が派遣されるが、彦坐王、あるいは開化の皇子の彦湯産隅の子だから、孝元の曾孫だ。 ってことは、吉備津彦と孝元天皇の子孫の一部が、卑彌呼死後に孝元の皇孫の崇神を男王にたてたが、卑彌呼の王族(親族)や、卑彌呼女王國の譜代の豪族の一部、尾張氏などが、

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鬼塚健太郎@KentaroOnizuka

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男王に従わなかったので、男王=崇神はその従わなかった王族や豪族の討伐のために、四道将軍を派遣した、と考えることができる。 すると、崇神を擁立したのは、四道将軍の最長老の吉備津彦で、丁卯の亂は、吉備津彦による倭國乗っ取りのクーデターではないか、となる。 つまり、吉備津彦が狗奴國王だ。

鬼塚健太郎@KentaroOnizuka

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