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≪アメのタリシヒコ大王の正体≫ 「聖徳太子」によるものとされた制度を定めた 「アメのタリシヒコ大王」とは、いったい誰なのか。 推古天皇の前、崇峻天皇(即位587~592年)が 弑逆された時を以って、「それまで」の天皇の政治はいったん終わります。

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むぎ茶ねこ@noranohokori

さて、これ等の事実から7世紀が始まる前年、 600年に『随書』「倭国」伝に記された 「アメ(アマ)のタリシヒコ大王」の言葉の意味が 明らかとなります。 倭王「アメのタリシヒコ大王」は、隋王「高祖文帝」に次のように伝えます。  (続く・・。)

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アメのタリシヒコ大王が、政治の実権を完全に 握ったためです。 アメのタリシヒコ大王は、自ら決断し、600年、 隋王に「倭国は大和国(畿内国)に国を譲る」 と伝えました。 推古天皇以降は、アメのタリシヒコ大王が実質の 天皇となり、推古天皇(即位593~628年)は当初、 実権なきお飾りでした。

むぎ茶ねこ@noranohokori

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