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『日本書紀』の編纂に関与した一方の 天智系天皇や藤原氏は蘇我一族の業績を 可能な限り隠蔽したいが故に、アメのタリシヒコ 則ち蘇我馬子の業績を厩戸皇子こと聖徳太子を 創作して、此の架空の人物の業績としたのです。

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むぎ茶ねこ@noranohokori

≪アメのタリシヒコ大王の正体≫ 「聖徳太子」によるものとされた制度を定めた 「アメのタリシヒコ大王」とは、いったい誰なのか。 推古天皇の前、崇峻天皇(即位587~592年)が 弑逆された時を以って、「それまで」の天皇の政治はいったん終わります。

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大臣(オトド)であり、摂政である 厩戸皇子=蘇我馬子が、 完全に国政を握り、実質上の「天皇」だったことを 言い換えたわけです。 馬子が、さすがに「人物」であったのは、 自らが天皇になることなく、名目上とはいえ 推古天皇を「和」の象徴として立てたことです。

むぎ茶ねこ@noranohokori

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