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ジャイナ教徒のような生き方も例えば可能でしょうし、その潔白の生き方の行き着く先にシオランの説いた怠惰があるのでしょうが、それは生、つまり「どうしようもなく存在すること」に真っ向から対立していて、だから僕はそうではない生き方を模索していますね。正直加害に関しては開き直っています。
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なるほど、この世に投げ出された状態からなお生きていく選択をするのならばやはり罪責(こう呼ぶのが相応しいかはわかりませんが)を引き受けて乗り越える必要があるのだな、と。しかし加害への開き直り、確かに生きる上で必須そうですが、度が過ぎるとあまりに惨い事態を招きそうで怖いです。