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基督教の人に話そう。仏者の遺せる言葉の中に“「親鸞は弟子を一人も持たず候」「如来の本願ひとえに親鸞一人が為なりけり」とある。これはイエスが「神」と言わず「主」といった事の事由に重なる言葉なのである。イエスは「主」といって、神という語が出鱈目なのだと言外に諭してるのだ。人は、日頃、
メニューを開く小池仁一@sakakimitsurou
しみの創造主と思う人は人に厳しく当たらない。慈悲深い方と神を思うと聖書言葉街角に掲げる驕慢なさぬ。慈悲深いと思ってると不満がないから後輩部活でシゴく様な嫌味のイジメの牽制心理で街角に聖書言葉掲げてみせて胡座かいたりしないのだ。
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躁競的で、他者を牽制したがっている。そこに神という語を使う。神という極道語を挙げ無茶苦茶に自分の正義語りたいのだ。故にイエスは主と言った。自分が正義で存在居場所有したいから聖書言葉を町に掲げる。宗教も倫理も神も他人の事で、人を牽制したいのだ。「親鸞一人の為なりけり」等の念など更々