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自分を自分たらしめるものは、「過去どのように過ごしてきて今の自分があるのか」という連綿とした記憶であり、名前でも姿かたちでも構成する物質や考えでもない。 テセウスの船が議論の対象になりうるのは、その船自体に自我がなく「自分が船としてどう過ごしてきたか、どう変わってきたか」を

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ななし@lala_lilt

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自覚することが出来ないから。本人が自覚することが出来なければ、全ての過程を認識する存在が居ない。他者は本人ほどその対象の歴史を知らないので、過去からの連綿を認識することは難しい。だからその船を構成する部品が入れ替わってしまえば、それは元の船とは別の船に見える。 逆に、その歴史を

ななし@lala_lilt

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