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いのかな?と内心思って人訪ねて布教するのは自身の内なる良知良能からの快癒願望の使嗾の働きの蠢きなのであり、人生という物の問題の根幹に触れる勘所の要点なのだ。「親鸞一人が為なりけり」とは他の人は救わずともよいたる事でない。人生の問題は関わる人を愛さぬ身の様の問題であり、身だけを頭も
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たげむ躁競の念の問題だという自覚がテーマの事なのだ。合同礼拝の場等で自分の信を披瀝するを身の努めとせる者は道徳も宗教も他人事で宗教は他を戒める道具と思ってる。神を、育ち良からぬ大将等と思ってると身が信仰姿披瀝の場で他を監視し合う合同礼拝や合同結婚式等に出て神への諂い確かめ合ってる