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相国寺時代: 天章周文(足利将軍家の御用絵師の画僧)に師事 →中国の水墨画の延長線上の繊細な画風 →雪舟には合わず、不遇時代 →ライバル・小栗宗湛の出世 1454頃: 35才頃、山口(周防)の守護大名・大内教弘からの誘い→都落ち決断 ※大内教弘は文化に明るかった→周防を発展希望

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掛軸塾・塾長@art_nomura6688

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雪舟が周防(山口)に行った理由には諸説あるらしい ・自国の文化を発展させたい大内氏からのオファー? ・京都で不遇な雪舟の新天地希望? ・水墨画の本場、中国への渡航方法を雪舟が模索して志願? どれもありそう それぞれが複雑に絡み合っての周防行きか?

掛軸塾・塾長@art_nomura6688

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