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めも) 「ego sum qui sum(私は存在するものとして存在する)」出エジプト記 というのはもしかすると 永遠の側の時間と変化の側の時間が互いに否定し合うなかで、その存在論的否定性こそがはじめて私を規定する というところに繋がったりする?

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横山信幸の(哲学)@yokoyama33

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