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英語の個人に対する蔑称表現として、サノバビッチとかマザファッカーとか、「個人に対する」蔑称ではなくて「個人と家族を包括した」ところに対象者の誇りに対する怒りの焦点があるあたり、欧米と日本の帰属する社会的コミュニティの最小単位である、家族の重要性への考え方の違いがある気がするなあ

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ペンギンさん@kWXnQyRszk83688

みんなのコメント

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日本では個人の人格形成、って意味では最小単位は村とかになるのかなと思う。まあ個人としてアイデンティティが家族単位で育めてる環境で育ってると、異なる意見になのかなとも思うけれど、少なくとも感情由来の表現の傾向として言語に現れる程度には、社会的気質に違いがあるのかな、と思う

ペンギンさん@kWXnQyRszk83688

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対して日本的には、慣用的に用いられる親を用いた表現には親の顔が見てみたい、なんかがあるけど、そこにあるのはあくまで個人に対する不出来さへの表現であって、実際の信頼関係の有無に対する部分での感情のウェイトは低いような。その次はもうお前の母ちゃんでべそ、みたいな実用性低なものな感じ

ペンギンさん@kWXnQyRszk83688

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つまり、個人ではなく、個人にとってその個人を育んでくれた信頼関係を疑うことが、その人の誇りを傷つけることであって、つまりそこがその人間のアイデンティティの根幹であるってことで、欧米的には個人というのはコミュニティ上の個人であるって感じ

ペンギンさん@kWXnQyRszk83688

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