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前回ジョージアに帰ったときの外交官の集まりのことです。会合を終えて5、6人で楽しく食事しながら話している時に、ある人が「お迎えの車は到着したようだ」と言いました。年少者である私は思わず「つまりそれはそろそろ出なければならないということでしょうか」と気を配りながら言いました。何を隠そ…
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慮る、の域を超えた嫌味は京都の一部だけの風習で、日本人にも理解されず、発言と意図が逆で、しかもケチばかりつける人たちというイメージで捉えられており一般に嫌悪されています。日本という大雑把な主語で、変化して語らないでいただきたいなあ…
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ピアノや時計の話に関しては確かに京都の文化と思いましたが、「迎えの車が来ました」=「帰る時間だよ」は京都だけでなく日本人の多くがそう思うように思います。 京都の文化は我々日本人が自然と持っている感覚であって、特殊なものではなく、単に程度の問題であるというふうに気づきました。
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昔、ベルリンからヴィーンへ向かう夜行列車の中で知り合ったヴィーンのビジネスマンに「京都では“お茶でもいかが?”と尋ねられたら“お帰りください”という意味がある」と言ったら、彼は「それはわかるように思う」と言いました。 観光客が多いけど外国人には住みづらい古都同士は似ているのかなぁ。
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「察する」とは日本独特の考え方、直接言葉として発する事への不協和音や逆恨みなどを気にする日本人、これらは全て「恥」へ繋がる伝統的風習、忖度など翻訳し難い日本語がある為、外国人が押し寄せる現在大きな摩擦となっているのでしょう。