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明治維新の戊辰戦争はなぜ実行されたか? 1,第二次長州征伐で幕府軍の戦力が思ったより弱いことが予想できてしまったこと 2,京都での新撰組の活動などに対する復讐 3,現実に旧幕府の政局への影響力を排除したかったこと。(幕府なくなっても徳川勢力の力は相変わらず強いままだった) 4,薩長の借金

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アポロン@勉強垢@apolon12345

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あと戊辰戦争の戦犯問題だが、大名クラスには大きな責任を取らせないことが裏取引されていたためなのか、実は幕府の老中も譜代大名であったため殺された人はいなかった 被害に遭ったのは老中に気に入られた老中の藩取り立てられた藩士達だった 彼らは老中の身代わりになり責任を取らされ切腹している

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佐幕派の藩の財源を取り上げたが、既にそれらの藩は借金状態だったところも少なくなく、その借金もそのまま新政府は引き受けることになったらしい。 その代わり利子を大幅に減らしたり何年か払って最後の方は踏み倒したりしている。 元々武士への貸付は不安定だから利子も高く設定されていたと言う。

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4は薩長は戦争による損害賠償で元を取る前提で借金をして武器を手に入れていたため、戦果なしで戦争を終わらせることはあり得なかった そのため佐幕派の藩の財源を差押えて資金を確保して借金返済に充てたらしい またそう言う理由で無償の和平交渉も考えられず、藩主の命と引き換えに身代金を集めた

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3,戊辰戦争しないと、徳川宗家が3000万石近く所持した最大大名のままで政局への影響力が強いままであり、新政府の国庫収入も朝廷の2万石程度しかなく実態が伴わなかった。 そこで徳川宗家を駿河藩へと移封して天領を没収することで新政府の財源を確保した。

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京都守護職や所司代や新撰組の活動はそれなりに指揮系統が整った活動だったらしいが、戊辰戦争の幕臣に対する戦犯の軍事裁判は近代国家からほど遠い暴力による自白強要と私的リンチに近い裁判により殺されたらしい。 ただし坂本龍馬暗殺については大名関与だったためトップで取引された可能性も高い

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もう一つ、御三家の尾張藩と水戸藩は最初から朝廷絡みの戦いになった時は朝廷側につけと言う藩祖から言われており、尾張藩は更に幕府を守るのは譜代大名の役目で自分たちは朝廷を守る立場だと言う考えで、老中達もそれ故に将軍に選ばなかったところがあったらしい。

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2は京都守護職の会津藩と所司代の会津藩主の弟の桑名藩とその預かりになった見廻組と新撰組による勤王派藩士への暗殺活動だった。幕府の老中達の了承を得ずに孝明天皇と直接やり取りして行われたため、幕府の老中達は会津藩との私闘に過ぎない認識を持っていたらしい。

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つまり薩長は西洋式の戦い方をしっかり取り込んで大砲や銃も新しくしていたのに対して幕府軍は旧式の火縄や陣旗織甲冑のままのところが多く薩長の1に対して幕府軍の10が負けるみたいなことが起こった。 幕府がしっかり準備せずに戦いを始めたことが予想外に足を引っ張り将軍も戦中で病死する

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1は大勢で囲めば1つの藩ぐらいどうにでもなると言う甘い見積もりで将軍家茂の時に幕府による長州大征伐が決行され、そのやり方に納得しなかった尾張藩は参戦しなかった しかし幕府が動くと想定していた藩が財政難とか長州藩と裏取引していたりして実際に動かなかったり旧式の戦法や甲冑が仇となった

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