ポスト

第二次世界大戦後の傷痍軍人の方々が前後どんな人生を歩んだのか、最近気になっている。子供の時に横浜や大船で見た路上に立った軍服を着て物悲しく楽器を鳴らすあの方々の記憶は鮮烈なんだけど、その後福祉は受けられたのか、ご家族はいたのか。日本ではメディアで取り上げないわよね

メニューを開く

May_Roma めいろま 谷本真由美@May_Roma

みんなのコメント

メニューを開く

私の子供の頃にも、白装束で軍帽被って膝から下が無い方がいつも百貨店の脇に黙って座って募金箱を置いて座っていました。 子供心ながら、この人は毎日、ここで何をしているのだろうと不思議に思った記憶があります。…

七人の侍@samuraiseven_

メニューを開く

さらに気になるのは、第二次世界大戦後の傷痍軍人の方々に対する整形手術。欧州では美容整形の起源は第一次世界大戦の傷痍軍人に対する整形手術で、イギリスだと沢山の資料が公開されている。戦争で整形手術の手法が発達し、重要性が認識された。日本だと見かけないですね。

May_Roma めいろま 谷本真由美@May_Roma

メニューを開く

引き揚げて以降も、一般の日本人女性が鬼畜米兵の蹂躙に遭わないよう赤線で闘ってくださった日本人慰安婦や吉原の皆さんについても、ほとんど闇の中。 また、二日市保養所の件も、知らない方が多いのではないかと思われます。 ついでに中国でさえ存在する残留孤児が、半島では全く出てこないことも…

飯冢sugar@penpen616915342

メニューを開く

「しょうけい館」という戦傷者の資料館がありますので、一度お尋ねになったらいかがでしょうか? shokeikan.go.jp 受けていた年金の一旦停止、その後の再開の展示などもあります。

Moroo Jun@moroo

メニューを開く

私は昭和22年生まれ。子供の頃 横浜の野毛辺りの路上に沢山の傷痍軍人の方々が アコーディオンを弾いたり、片足で松葉杖で立っていたり、両足、両腕がない人は座って…申し訳ないけれど覆面をしてる人は恐かったです。ブリキの器に母はお金を入れてました。 そうですね。その後の事が気になります。

アリスばあば@AYjOveb684J5tww

メニューを開く

最後に見たのは1970年頃かなぁ、確か横浜駅だったか、片足の軍服姿の乞食が歩道の端に座っていた。 四肢の欠損のある方が多く、強烈に記憶に残っている。

ロストニ@Orisikini3

メニューを開く

上野液周辺で聞こえてくるハーモニカの悲しい音色、行き倒れ餓死した人々、上京したての青年だった私の父親は度々話してました。 復員後メンタル病んでボサボサ白髪頭、片目潰れて意味不明な事言うオジサン達。生活ぶりは良くなった裏で、報道からも見捨てられ、取り残された人達はかなりいました。

Angemignon@Angemignon3

メニューを開く

1995年から4年間、北海道網走市に引っ越したんですが、地元在住の下宿先のおばちゃんの話によると、戦後直後から数人の傷痍軍人が網走駅前にずっと居座っていて、時が経つに連れてひとりずついなくなっていき、最後のひとりは1985年の真冬に駅構内で凍死したそうです

Tar Sack@tar_sack

メニューを開く

そうですね、戦災孤児、シベリア抑留、満州帰還はたまに目にしますが、傷痍軍人の方のはないですね。 軍人の恩給に関しては日本は階級によって差があり、そこは同じ敗戦国であるドイツとは違ったようです。ドイツは大将から一兵卒まで軍人恩給は同額、と記載ありました。 pic.twitter.com/8E3gmr4yq5

みるくのママ@2ZtoDxHtza52209

メニューを開く

私が上京した当時、横浜駅前などでよく見ました。 ただ、今にして思うと傷痍軍人には恩給が支給されていたはずで… あの場所に佇んで物乞いしてたのは旧軍の軍服を着ているだけの手足に障害のある方…なのかも。

ベビールース@Babyruth_Detect

人気ポスト

もっと見る
Yahoo!リアルタイム検索アプリ