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さくっと思いつくところ、概ね「左派」とか「ウヨ」とかの党派性、少し引き気味に俯瞰して「近代的自我」とか。でも、渡辺京二「逝きし世の面影」第十三章「信仰と祭」を再読してから、下記現象を「士大夫の割礼」と名付けたい気分。古語拾遺序章の若者批判も同じ類の指摘なのでは、と広がってしまう。
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無条件に「正しい」教義をいきなりあらかじめ設定する/できてしまう、その精神構造というかココロのありよう自体がまず、学術研究の対象なんだろうな、と。