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「とえば、福澤はヨーロッパにおける人権概念を検討するうえで、武士の一分という考え方を持ち出します」あたりなんかは訂正可能性の議論におけるローティ解釈(再帰的保守主義だったかすでに記憶が怪しいのだが)にダイレクトしそうな気もするけど、符号に頼りすぎかもわからない。
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「西洋にも武士がいるのだ」として西洋のなかにいわば日本人を認め連帯することは、武士=日本人ではない西洋を無視するということでもある、とすれば、これがスナップショット、パパラッチにすぎない点が強調されるのかもしれない。そうして交流を始めたなら、よくもわるくも関係は訂正-堆積する…