ポスト

ちなみに、引用したこれに関してはじっさい市田さん自身が言っていたりもする。鈴木創士との『騒音書簡』での次のような書きっぷり。「大仰な言い方を重ねれば、狂人こそ真のへーゲリアン、真のハイデガリアンだ。ヘーゲルとハイデッガーの意に反するほどに真の。 」(skatingpears.com/sp4non/reading…

メニューを開く
nk@i_u_0__0_u_i

そうすると市田=フーコーにおいてルーセルはヘーゲル主義(合評会での「ルーセル=絶対知」)やハイデガー主義(分身=決意性)の「留保なき」形態なのかもしれない。うーん。どうしてもわたしにはルーセルや分身に「現象学」があるとは思えないんだけどな。このあたりは今後よく考えてみよう。

みんなのコメント

メニューを開く

ところで、フーコーのバタイユ論「侵犯への序文」(1963年)は「侵犯」に「非定立的な肯定affirmation non positive」を認めることで、バタイユを「留保なきヘーゲル主義」として読むデリダのバタイユ読解とはまったく異なる道を示してはいなかったか。このあたり、論文書くべきだろうな。 pic.twitter.com/KJD644NXHi

人気ポスト

もっと見る
Yahoo!リアルタイム検索アプリ