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高邦と高邦母が、飛鳥の橘寺で、川原の左大臣屋敷跡とその近くの難波堀江の存在を違和感なく受け入れているのは、当時の人にとって、少なくとも飛鳥の豪族蘇我氏は常識であり、また『日本書紀』欽明天皇紀および敏達天皇紀の、難波堀江に佛像を流し棄てた条にも基礎知識があったことを意味しています。

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Kyoko Deguchi@wood_odd_pansy

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高邦と母は、川原の左大臣を知っている一方で、『紀』孝徳天皇紀と天武天皇紀にある川原寺も、同じ『紀』欽明天皇紀にある、蘇我稲目が淨捨して寺と為した向原家(むくはらのいえ)も知らないようです。これらに限れば、彼らの川原左大臣や難波堀江に関する知識が『紀』によるものとは断定できません。

Kyoko Deguchi@wood_odd_pansy

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