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割り込み失礼します 祐天寺方面は、川沿いに比較的広い道があり、川沿いが昔から満遍なく宅地化されていたのに対し、学芸大学方面は、道が狭く、田畑がぐねぐねと広がっていたので戦後の宅地化で中町通りを通す際に消えてしまったのだと思います

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太巴塱(たふぁろん) 全科連運営委員@amis_taiwan

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・中町通りは1930年代の耕地整理時に通されています。 ・この際に学芸大学方面の流路は複数に分かれていたのが1本にまとめられました(1935火災保険図)。 ・その後、流路は道路に沿って直線状に付け替えられたとみられます(1961目黒区役所地図)。 ・その後の暗渠化で道路と一体化しています。

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