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勝義諦がもし勝義有の事態を写像した「命題そのもの」を指すのだとすれば, 「世俗」と名付けられるべきゆえんである名称が勝義諦にもはじめから組み込まれていることになる. 二諦一般を言説だけの次元から捉えるというのは少々中国三論的なバイアスが強すぎる.

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