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→ここにある主張は、担当する英語コミュ領域に直結する。英語に向き合えばおのずと、自分たちと異なる文化や価値観、コミュへの構えに気づき、新たな文脈のなかで問うべき上位概念が変わらざるを得ない。だからこそ、他者との向き合い方や対話の作法、そのための言語感覚が問われる。→
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→もちろん、学習者が英語を使えるようになることは英語を担当する僕らの使命。けれども、英語(外国語)習得さえそれでさえ公教育において身につけるべき力能を修得する手段でしかない。 そこに僕がコミュ学的に英語教育にアプローチする理由と意義がある。