ポスト
一方、「仁徳」(「倭王讃」と考えているようなので425年+α没との考察と推測)の、最初の埋葬古墳は、現・履中陵の石津丘ミサンザイ(TG232/TK73移行期?)としてます(「寿陵」も想定)。そこで終わりにしておけば時期も合うのでいいのに、石津丘直後に吉備で造山(TK73期)ができたので、次王履中
メニューを開くみんなのコメント
メニューを開く![](https://rts-pctr.c.yimg.jp/BgIFgYJGVIVv8u0nVJvw8B2FauAYMF4jOP5zFJAV4i5e72TLbER0xQeK1l8ZZ0OLPZW6OdcY0eWc2IwVmAhum9FdGmViwHFFwiRNJPOhM4x3rs6D2nEuhmU3JWEUHGRKl4I0Tf3gxwiCUTzbwczgg6MJF0-FCogxkJJZZ15e39PjmIOt0ZdZX4WbUWCJOfhAH-iNEUlGhLj_l7yLaA6XS5-3hsVA9IArxWeOu98cQXM=)
が「先王の陵墓を大きくすべき」と言い出して、大仙陵古墳を死後築造し出したとか?しかし記紀読みさんですが、記紀にそんな記述ありません。しかも大仙陵はON46に少なくとも築造終了(450年代あるいは460年直後までの時間幅)ですから、造山がTK 73期とすると430年代中なので、20年もかけて死後築造し