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ところが、246年に狗奴國王卑彌弓呼は、なんと吉備や播磨の弟たちによって狗奴國(淡路島)から追放されたんで、そこで、孝元天皇の子孫たちを懐柔して、卑彌呼の後継者として孝元天皇の孫の崇神にして、卑彌呼の國を簒奪しようとしたわけです。 で、孝元天皇の皇子や皇孫は大方、卑彌弓呼に従ったが、
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そこで、卑彌呼側について、卑彌弓呼や男王(崇神)にはむかったのが、武埴安彦です。 まあ、卑彌呼は責任とって正始8(248)年2月1日に自死します。で、崇神は武埴安彦討伐で、孝元天皇の皇子、大彦を指し向けます。武埴安彦の妻の吾田媛も叛乱を起こし、卑彌弓呼が討伐に行きます。