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興国2年(1341年)に小田治久の離反によって小田城を追われた北畠親房がこの城に逃げ込んだ事で、近隣の大宝城(茨城県下妻市)と共に北朝方の攻撃を受けます😀攻撃方の北朝勢が地下坑道を掘って攻略しようとしましたが城内側がそれを察知し反撃に及んだと云われています😀2年に及ぶ戦闘の末、康永2年/ pic.twitter.com/iZIGu4TPoN
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興国4年11月11日(1343年11月28日)に北朝側からの総攻撃を受けて翌日陥落、関親子は討死し、北畠親房は辛うじて脱出しました😀なお北畠親房が白河城の結城親朝に対して送ったとされる『関城書』はこの城で書かれたものです😀 pic.twitter.com/xjaxvjZjJG