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る、今は平和であるという様に、客観的に観察して、そこに、一つの悟りを開くのであって、天台時代のごく上流の人の修行の仕方である。天台大師の兄が病気になった時に、『頭に熟蘇味を載せたとする。これが、段々と、足まで満ちて行き、やがて、室中に満ち満ちると観ぜよ』との大師の言葉によって、そ
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の通り観念観法して、病を治したという様な事は、この例である。 現代においても、我々の人間界に十界があるとか、宇宙観が己心に住するとかいう様な、理論的問題を説いていると考えているが、それは、観念論者の意見であって、天台の偉大な哲学に圧倒された考え方である。現在、末法の人々にあっては