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1189年6月15日(文治5年閏4月30日)は、源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川館を襲い、源義経が自害した日です。#今日は何の日 六道の 道の巷に 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも 武蔵坊弁慶 後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで 源義経 pic.twitter.com/t605kWY9BL

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歴史が好き🍀@naruseyanoken1

みんなのコメント

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『常山紀談』や『落穂集』の逸話ですが、家康が高天神城包囲中に幸若舞を呼んだところ落城寸前の城衆から懇願されて「義有て哀なる舞一番」を所望、大夫は「高館」を舞ったとのこと。旧知の岡部元信から開城提案されたが信長から拒否され、自身を義経主従(今川旧臣)を討った泰衡に重ね合わせたかも。

側近=今川家陰の帝王 嵯峨良蒼樹@SagaraSouju

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源義経名言 ☆迅速こそ、勝利である。 ☆勝つということは味方に勝つ事である。味方に勝つというのは我に勝つ事だ。我に勝つというのは、気をもって体に勝つ事である。 ☆人よりも百倍臆病であるとすれば、百倍勇気をふるい立たせればいいではないか。 pic.twitter.com/ZfyShiFDGj

いたがき歯科クリニック@itagakishika

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高館の義経堂と、衣川の眺め 自分が行った時はもっと天気悪かったんだけど、数百年前に義経もこの景色を見てたのかなと思うと歴史を感じます。 pic.twitter.com/kLKGKaeIyt

こしあんおはぎ@takeuchi1130

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義経記・衣川の合戦における二人の別れですね。主従が強い絆で結ばれている事を示す一コマです。史実の弁慶法師は、詳細不明なのですが、義経を守護した、鞍馬や比叡山の山法師等の活躍が、彼として集約され伝説化していったのでしょうね^^🦈

ほおべにざめ@Veikabuzame_Sun

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鎌倉殿の義経はサイコパスに描かれましたが、火の鳥乱世編の義経も頼朝が至極まともに感じられるほどの狂人設定でした。 いずれにしても平家一門が平家というそれだけで一枚岩になれたのと違い、源氏はまとまりがないんですよね。

龍貓銀(お銀・ロンマオイン)@radio85008070

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「雲の上まで」と聞くと足利義輝が浮かぶ

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源義経を殺した藤原泰衡の判断はよく批判されますが、彼の義経を殺せば朝廷は藤原氏追討の宣旨を出さなはずという計算は当時の政治状況を考えると決して的外れではなかったと思います。 むしろ宣旨なしで奥州に攻め込んだ頼朝の方が当時の政治家としては異常だったと思います。

村松左衛門尉カズヒロ(日本保守党党員)@matuzaemone

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義経は平泉で切腹はせず 三陸を通って…北へ~😅 平家を倒したスターが… あえなく…😢そんな伝説が今も

盛モカ75@9449TbnKmmiTddn

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歴史ifの中でも必ず上位に来るのが泰衡が鎌倉に靡かずの奥州軍対鎌倉軍対決やね。

ぶうさん@nukonukobusan

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いや、秀衡死去から、すぐに平泉は脱出ですよ、1189年4月末のその時まで居たのはダブルの人、杉目小太郎でしょうな、

manabumatsuo@mamabumatsuo

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