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現代の欧米人は「主語」の存在を疑わない。文章の最初に主語を置くのを自明だと思っている。しかし、それは一向に自明ではない。主語などどこに置いてもいいはずだし、無くても言いたいことは通じる。
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ソクラテスやプラトンは常に「感覚とは何か」という問いから出発している。ロゴスはむしろ二義的である。アリストテレスの代になると日常言語への問いが先鋭化する。そして共通感覚こそが彼にとって「こころ」の在り処と見なされるようになる。
現代の欧米人は「主語」の存在を疑わない。文章の最初に主語を置くのを自明だと思っている。しかし、それは一向に自明ではない。主語などどこに置いてもいいはずだし、無くても言いたいことは通じる。
メニューを開くソクラテスやプラトンは常に「感覚とは何か」という問いから出発している。ロゴスはむしろ二義的である。アリストテレスの代になると日常言語への問いが先鋭化する。そして共通感覚こそが彼にとって「こころ」の在り処と見なされるようになる。