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加藤典洋『敗戦後論』を今から読みなおすのであれば、歴史認識や戦争責任みたいな語で連想する議論をいったん措き、宇佐見りん『推し、燃ゆ』的問題意識、つまり、もう推せなくなった「推し」のいる自分はこれからどうするべきなのか(「推し」だったはずの「大日本帝国」はどうあがいても「有罪」だ)
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みたいな問題意識で書かれた本として見てみるべきなのかもしれない。「火事の中、地面に倒れた。と、誰かが自分の上に覆いかぶさり、気がついたら、その人はもう肺となり、すでに火は消え、自分はその灰に守られ、生きていた。その自分が真先にすべきことが、自分を守って死んだその人を否定することで