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託宣で何者かの祟りとわかる→その者が願い(要望)を伝える」というもので、それが神であろうが人であろうが意思を持つことが前提になっている。上記の『好色一代女』の例では託宣が欠けており、主人公が生み出した幻影と見るのが妥当であろう。 そう考えると、自我の存在が認められていない→
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七歳以前の子どもが祟るということは民俗社会の理屈からするとあり得ないのである。まして、赤子に過ぎない水子が意思を持つかどうか。 以上、水子供養の周辺を考えてみた。日本の伝統的な民俗社会の理屈によれば、水子はそもそも祟ることのない存在であり、供養する必要もないのである。
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江戸時代の「子宝」概念のせいだという説があります x.com/nizigaro/statu…
メモ。 rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/1568/fi… いわゆる「七つ前は神のうち」という言い回しは近代に成立したものでは?という論考で、律令期の葬制における小児の除外規定の理由「儀礼の進行に支障が出るから」が、儀礼の省略に伴い「子は宝」という特権的扱いに変化して、小児の聖性はだいぶ新しい概念と指摘。 x.com/usedtobe_sth/s…