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古典学は文献学的実証主義が基本ですので、こうではないか、となにかを言うためには、かならずその主張を裏づける用例が必要となります。つまり徹底した帰納主義です。これ自体はとても健全なことで、(用例は見つけてないけど)きっとこうであるに違いない、と演繹的にアプローチすると、→
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こうであってほしい、こうあらねばならない、という主観によって文献なり過去なりを誤読(ひどいときには捏造)していまいますから、習い性として、こうあるべき、ではなく、どうあるのか、を正視しようとします。じつに健全です。→