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平成アニメのコミュ障美少女は「陰キャの俺でも付き合えそうな女」として描かれたから主体性がない 令和アニメのコミュ障美少女は「陰キャの俺が女に変身したらこんな感じだろう」と描かれるから主体性がある
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長門有希(2006)あたりは旧世界観で、その後にヤンデレが勃興してメンヘラに変わるうちに世界観のシフトがある。わたもて(2013)ではまだ美少女化する心理的抵抗があったが、ぼざろ(2022)までに美少女化は完成している。長門有希には主体性がなく、後藤ひとりには主体性がある。似て非なるコミュ障だ。