ポスト
映画制作の審級(我々観衆と監督他制作陣が虚構の外に共有しているシナリオの書き手としての審級)では、あの眼差しには結果的に強い意味が生じる。劇中劇のラストの審級脱出的なカメラへの眼差しは、記憶を失う直前のフリオが演じる英雄的な男から、今では役者になる人間的機能も失ってしまった、
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フリオではないフリオに向けられる。スクリーンの中から見詰める男はフリオではない作中人物であり、その眼差しを引き受けるのも嘗てのフリオではなくなってしまった男だ。その失われた男フリオ周辺の出来事を見守る我々にとって、虚構のミゲル・ガライやアナ・アレナス、虚構の中の虚構の悲しみの