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その世俗性とは、人とは本質的には実利(利益)により動くものであるとする人間観(倫理観)が背景にあるし、そのような理解に基づくことで人間間の互いの契約関係(双務関係、債権債務関係)が開かれていたりする。しかしいわゆる対価を要求しない自己犠牲などは契約関係的には説明するのは難しい。
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倫理とは結局のところ、道徳に関しての動機や理由付けが求められるものであるとするなら、必然的に語られねばならないものであり、語りえないものについては倫理とは沈黙するより他ないのである。だが、それ以外はありえない、というゲーム性が推移可能となるとき、道徳とは帰結化(決定論化)される。