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1541年7月7日(天文10年6月14日) は、武田晴信(信玄)が父信虎を甲斐から追放した日です。その後信虎は、駿河や京に住み足利義輝に仕候するなどの活動が確認されています。晩年は六男武田信廉の居城高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面しています。長篠の戦いの前年に亡くなりました。#今日は何の日 pic.twitter.com/wHWWJvxgKl

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歴史が好き🍀@naruseyanoken1

みんなのコメント

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>長篠の戦いの前年に亡くなりました。 武田氏の最盛期に亡くなった、幸せな人…

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確か、信玄公死後に勝頼公と会見して、追い出されて野垂れ死にしたって逸話もあるよね。

流歌@24年早春甲甲乙甲、ルカ姐さんすこすこ侍、異修羅好き@RukaT2021

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実は晴信が追放と見せかけ間者にしていた説が好き

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信虎公はただの戦上手なだけで町造りに関しては全然駄目だったらしく、このままでは国が滅びると思った武田の重臣達は信玄公を選んで信虎公を追放しようと決めたのでしょうね。 その逆に信玄公は戦上手だけではなく信玄堤で知られる通り町造りにも定評があって今でも山梨県民に慕われてますからね。

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今川が攻めてきた時に、原美濃守が大将の福島の首をとっていなかったら完全に負けてた😱 おそろしいこと

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父親として、息子晴信の生き様をどう見ていたのだろうか。

谷兼拓海@q4t2As04a11cMS5

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武田信虎というと、甲州を追放された後、伊勢で九鬼水軍と戦ってた話がありますね あと寺田農の最後の主演作品になった「信虎」 序盤の京都を脱出して信濃に向かうシーンでかなり不安になるんだけど、そこ以外は非常に良い作品でした pic.twitter.com/TKPzFyzIsZ

あろぱるぱ@dpsdNwUWsc61188

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ま、まさか信玄より長生きし、勝頼と会っていたとは… 昔のNHK番組で、「信虎追放は重臣達によるもので、晴信は実権を握るまで苦労して、後々まで家臣たちの忠誠を信じることができなかった…」みたいに言ってました。

日生残@fyiabtjp

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井沢さんの本を読むと 信玄は器量抜群で危いくらい攻撃的で この戦国温厚より攻撃的なくらいがお館様としていいと板垣 甘利らもクーデターに賛同したとあります。 義元は武田に恩をうっとこう信玄が早生すればなおよしと思ったみたいですね。。 歴史をみると幸せの形ってそれぞれだと実感します。

東京♡ツンツン研究所〜スーパー実演販売マン〜@358un

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13歳で家督を相続し、甲斐統一、甲府を開いた しかし武田の負債は限界に達し、民心を改め、徳政を為すべく代替わりした つまり主君が代われば不満が解消され、借金も棒引きにできるぞーと 信虎本人は機を見て帰国するつもりだったのに 信玄・勝頼は二度と信虎が戻ることを認めなかった

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