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大正8(1919)年の #20万分1帝国図#京都 を見ると、まだ市域は狭い。#伏見町 まで長い市街地が繋がるが、伏見稲荷は #深草村#百万遍 は田中村。東海道線は山科南回りの旧線。山陰線の西は田畑が広がる。#巨椋池 を突っ切る奈良電(現近鉄京都線)はまだこれからだ。淀町と淀村があったのか… pic.twitter.com/dsl7lesT8N

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治田 洗礫@Harita_arayshi

みんなのコメント

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奈良線が宇治付近で変にカーブしてるのは 水捌けが悪い巨椋池付近の地域をを避けるためだったのか それとも山と平地の際に集落ができる古来の日本の特性から、人口の多い地帯を偶発的に結んだのか、どちらなんでしょうか…

なごジオ(なごんの地理雑学)@nagogeo1216

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山科駅って醍醐の近くだったのか😳

BONLES@kashi8

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この頃は巨椋湖だったのですね おもしろいものを拝見しました ありがとうございます

fig(ふぃぐ)@panofig

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奈良行きの線路は、奈良電鉄のものですかね?国鉄と同じ色だから、よく分からなくて。

藤本一郎 Fujimoto Ichiro@ifujimoto

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知恩院の文字の上の軌道の記号、ひょっとして疎水インクラインですか?

成田無頼庵@BrianKanjin

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今は京大が町中(住宅地商業地)に大きく陣取ってますが、この当時でいえばきっちり町外れにあったんですね。 北大なんかも今では札幌駅北口すぐの超一等地ですが、できた当時は適当な町外れだったんだろうな。

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山科回りの東海道本線の旧線は、今にして思えば残して活用したほうがよかったかもしれませんね。

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