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昨今は、嫌気が差したように描かれるケースが多いようですね。いろんな解釈があり、何れもあり得るのかなと思います。専門家でも何でもないですが、私の解釈は、精神的な逃げ場を失ったのかなと思っています。まず、湊川で戦うことになったのは、坊門清忠ではなく後醍醐帝の意志だったと思ってます。 x.com/kunematu/statu…

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撫月 柳下庵@kunematu

返信先:@shodamae_jiroイヤになってしまった… そんなふうに思えて仕方ないです… それほど御親政は酷かったのでは… ごめんなさい(_ _;) 私のような素人が正田前さんのような専門家に偉そうな事を言ってるかもです…(-_-;)…

正田前 次郎/歴史・小説@shodamae_jiro

みんなのコメント

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先般の京での戦の被害・批判も大きく、正成の提案を受け入れて、再び京を戦場にすることは為政者としては難しかったのだと思います。特に楠木党は町を燃やしたりするので、遠ざけたいという思惑もあったのかなと。帝自身も追い詰められていたのだと思います。

正田前 次郎/歴史・小説@shodamae_jiro

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