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高句麗の南下による強大な力に圧迫され、四七五年、百済は王都を南に遷すが、その三年後、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘や、熊本県江田船山古墳出士の太刀銘にその名を刻された、近畿の大王ワカタケル(のちに雄略とよばれる)に比定されている倭王武が、上表文を宋の皇帝に奉っているのは、 ↓

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安西大樹(あんざいまさき)@merginalman

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こうした半島の激動に対応するためだったことは間違いない。 そしてそれとともに、倭の影響の及んでいた朝鮮半島最南部の任那・加羅の首長たちに対する新羅・百済の圧力も強くなってくる。 『日本社会の歴史』網野善彦

安西大樹(あんざいまさき)@merginalman

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