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江戸の街の治安維持の問題 江戸の街はそのほとんどが武家屋敷で町人の住居地は日本橋や浅草など意外と少なかったと言う また街全体は夜は門を閉めて人の往来ができないようにして治安維持をしたらしい そして大老や老中含めて登城勝手口は決まっている そしてその付近に不特定の見物客がいたと言う

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アポロン@勉強垢@apolon12345

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結局のところ江戸時代の身分制度と言っても下級武士以下は殆ど変わらなかった可能性が高いと言われている。その範囲での身分異動は結構あったらしい。 その代わり下級武士と中級武士、中級武士と上級武士の壁が大きかったらしい 伊能忠敬も商人から幕臣に取り立てられたが、下級武士に止まっている

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農民の子や商人の子であっても先祖を遡れば武士であり、親元を離れ道場の門弟になっていることもあり浪人みたいな姿で帯刀していることもあった。 そして浪人の間は町奉行によって取り締まりを受けた。藩士として仕官した場合は町奉行は管轄外で取り締れなくなった。

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あと幕末は面倒なことに藩に迷惑をかけないように一時的に脱藩をする藩士がいたと言う。 彼らは独立しているように見えながらも裏で藩と繋がっており給付も受けていたりした。 坂本龍馬もフリーの身ではありながら土佐藩とそのような繋がりを持っていたと言う。

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江戸時代の浪人と言っても武士が解雇されて仕事を失ったり部屋住みで食べられなくなって武士から崩れた人と農民や商人が武士としてこれから仕官しようとしている人の両方がいたのである。 つまり非武士による武士への出世を目指す武家奉公人がいたのである。

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また商人と農民の区別も曖昧で人の流動もそれなりにあったらしい。 農民の次男坊以下が商人に丁稚奉公したり反対に商人の子も帰農することがあったらしい。 それは下級武士でも長男以外は養子にならない限りは結婚もできず武士崩れして農民になったりもしたらしい。

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せいぜい商人と言うのは大名などに雇われず城下町を利用したり行商しながら自営業を営む者ぐらいの意味しかなかった 武士は幕府そのものか幕府が管理する大名か旗本か、それらと雇用関係にある者ぐらいの意味合いでしかなかった そして雇用関係があっても武士と認められてなかった人もいたらしい

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ところで浪人は武士のように見えるが雇われていないものの刀を帯刀していると言う幕府にとっては不安因子だったと言う。 そして士農工商と言う身分制度は結構不確かなものであり、現在は商人であっても鎌倉時代には武士だった者も普通にいた。彼らの子供も道場に通う浪人姿であることもあったと言う。

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