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アメリカでは効率的であることが「論理的である」「成熟している」であり、フランスでは議論がされ尽くしたかどうか、イランでは真理であるかどうかが論理である。 日本では他人に共感できないことは、成熟していない、大人ではないことを意味する。
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「論理的」という言葉自体が日本に当てはめるには適切ではなくて、「大人である」「成熟している」の表現が妥当である。どのフォーマットが「正しい」とか「論理的である」のような比較は意味がない。その目的と中心的価値が文化によって異なるのでフォーマットが違うだけである。