ポスト
が、その時期等はくわしくわかっていない。乾山によれば光琳は絵にこそ自分の天分があるといつも言っていたという。 雁金屋の経営は、年間5000両以上も発注し最大の得意先だった東福門院の崩御(延宝6年(1678年))を期に傾きつつあった。また、米を担保に大名に金子を融資する「大名貸し」を行って、
メニューを開くみんなのコメント
メニューを開く![](https://rts-pctr.c.yimg.jp/BgIFgYJGVIVv8u0nVJvw8B2FauAYMF4jOP5zFJAV4i5e72TLbER0xQeK1l8ZZ0OLidl-YOmNG_XUAvy6s-lzMSLmf_mWBBx6MUsLGyecu5wGFkDtdfytQIGmkhu2Os4A3tan_ryQnLTP9VnOlZOs3GLYheqVnG3JH7K6Afi4YwOwosq974l_05cWfq4cuMcccpzJZJ8oD8Pty_HhOxJpzzE1RzIjVy3VpChMrnBX3kQ=)
その多くが貸し倒れになったことも雁金屋の経営悪化に拍車をかけた。こうした中で光琳30歳の貞享4年(1687年)、宗謙が死去し雁金屋は兄・藤三郎が継いだ。この頃、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、乾山からも借金するようなありさまで