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なお、村上藩領も城から遠く離れた蒲原郡にまとまった飛地があり、その飛地を管轄する陣屋が三条町にありました。三条には東本願寺の掛所もあり、近世から藩領を超えて多くの人が集まる地域の中心都市でした。ちょうど市の開催日に起きた1828年の三条地震で多くの被害者が出たのもそのせいです。

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原 直史@HARA_Naofumi

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また、なぜ越後に高崎藩の飛地があるかというと、1717年それまでの村上藩主松代輝貞が高崎藩に転封させられた際、旧村上領のうち38か村を次の村上藩主間部詮房に引き継がずそのまま自領にし続けたことがきっかけです。このように転封した後も旧領を支配し続けて飛地となる例は各地にあります。

原 直史@HARA_Naofumi

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本成寺周辺はどこの領地だったのでしょうか。 それにしても越後平野は飛地ばかりですね。幕藩体制の統治の不効率...。

中島朋義@tomopop21

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