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もっとも、それが「政治と文学」論争の場にまで引っぱり出されては、大きに迷惑だろう。 わたしは、『美しい星』も『午後の曳航』も、一種のユートピア小説だと納得している。 前者におい ては「宇宙」後者においては「海」が、行為と認識の完全に一致する奇蹟の領域である。 『偏愛的作家論』澁澤龍彦
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しかし、そんな領域は現実にはあり得ないから、このユートピア小説は必然に絶望小説たらざるを得ない。 「考えれば考えるほど、彼が光栄を獲るためには、世界のひっくりかえることが必要だった。世界の顛倒か、光栄か、二つに一つなのだ。」 『偏愛的作家論』澁澤龍彦