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子どもの頃、美術の教員をしていた祖母(1919〜1997)から戦争中の話をよく聴かされたものだ。中でも怖かったのは、疎開先が空襲に遭い教え子が何人も死んだ話。血まみれの死体、誰か判別できないほど損傷した死体。そして中には口からピンク色の腸が垂れていた死体もあったという話だった。 pic.x.com/mvpxrj7bbs x.com/mt_sanage629/s…

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はら まこと🇵🇸日本共産党瀬戸市議会議員🇺🇦NO HATE NO WAR🏳‍⚧@mt_sanage629

瀬戸市戦没者追悼慰霊式。昨年は台風で中止になったので今年が初めての参加でした。高齢の遺族連合会長が式辞で、パレスチナ危機にも言及しつつ「昨今の日本の防衛費倍増には不安。憲法を守り平和主義をいつまでも堅持しなければ」と警鐘を鳴らしていたことに我が意を得た思いでした。 #ハラ劇場 pic.x.com/h7trzjuez7

はら まこと🇵🇸日本共産党瀬戸市議会議員🇺🇦NO HATE NO WAR🏳‍⚧@mt_sanage629

みんなのコメント

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子ども心に戦争がいかに悲惨なものかを理解できたものだった。 一方、祖母は「日本は中国や朝鮮の人たちにひどいことをした」と、被害だけでなく加害の側面について語ることも忘れなかった。 そんな祖母は1997年7月に交通事故で他界した。

はら まこと🇵🇸日本共産党瀬戸市議会議員🇺🇦NO HATE NO WAR🏳‍⚧@mt_sanage629

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私の母は疎開先の一宮で、防空壕に入る瞬間爆弾が堕ちて、さっきまで元気だった先生があっという間に亡くなった。あんな戦争は二度として欲しくないと最期まで話してましたね。

前田 直貴@maeda_naoki2024

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