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『絵画における真理』でデリダは、美術作品の分析に言語行為論を導入した。それゆえデリダのルクレチアへの視線は、コンスタティヴかつパフォーマティヴなのである。伊豆の踊り子への川端康成の視線がそうだったように。x.com/superflat_2/st…

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ゲンロン形而上学クラブ@superflat_2

議論を続けよう。『伊豆の踊子』で踊子の少女が全裸で手を振る露天風呂のシーンは、日本の文学史上の特異点であるように思う。だとしたら、それはすでに指摘したように、川端康成がこの小説から動物(犬)を省略したことと何か深い関係があるはずだ、と批評的には思考されるはずである。

ゲンロン形而上学クラブ@superflat_2

みんなのコメント

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岡崎乾二郎は言っている。 キャンプしている人はその場にいながら、その場の外にいる。まるで無関係なエイリアンのように欲望も利害関係も離れて観察している。一種のエイリネイション(疎外)であり、観客の側から主体的に行われる異化効果です。 studium.xsrv.jp/module/Study/O… x.com/deja_lu/status…

郷原佳以@deja_lu

これまで「現在」という観念の特権性を支えてきたのは生/死の不可逆的分割であり、それはいまも支配的ではあるが、変容し始めているかもしれない、という指摘です。こういうことを言うことにあまり意味はないけれど、岡崎乾二郎の批評は非常にデリダ的です。

ゲンロン形而上学クラブ@superflat_2

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