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この住居が何者のものであるか「大和日記」には記載がない。これを三輪の油新こと今西氏の別荘で、当時の番人が脇本の辰巳弥七だったと明らかにしたのが久保田辰彦『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』である(1931年、463頁)。これ以前に聞き取りをしていなければ後世は知り得なかったであろう。
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明らかにしたは言い過ぎた。1895年(明治28)、奈良県宇陀郡松山町で同地出身の林豹吉郎の法要の際、土方久元(当時宮内大臣)が参列し、このときの関係者が呼び出されて回顧させられている。この段階の記録があるのか知らないが、久保田辰彦以前から知られていたわけである。