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ところが調べると廃嫡された正貞は、(以下Wikipより)別家を興して上総国飯野藩主(1.7万石)に封じられた。延宝5年の加増で都合2万石となった。以降明治維新まで譜代大名として存続し、最後の藩主正益は明治2年に版籍奉還で飯野藩知事に任じられるとともに華族に列し、廃藩置県まで藩知事を務めた。
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更に弥三郎以前、保科に住してから2代目の当主に嗣子が居ず一度絶えた家を多分同じ諏訪神党の尽力で再興された。かなりの名家と目されたらしい。 >保科・四宮は共に諏訪神家の後裔なり、盛行の子志郎太夫行遠、本郡保科に住し、其子友衡子なく井上忠長再興せるなり