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「ヤマト王権」が「継体持統」であったのか?には大きな疑問 まず「応神天皇、誉田別命」は九州出身、その系統は奈良盆地に入らず、河内の百舌鳥、古市に王陵を築いた。 「継体天皇、男大迹王」もヤマトに入らず北河内、摂津。 「ヤマト」の呼称は7世紀末 ヤマダイ≠ヤマト

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イワヲ☆城と古墳と古代官道@siro46kofun

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